神社の由緒の調べ方(幕末以前編)

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神社の由緒の調べ方(幕末以前編)

神社にお参りの方の関心事として多いのは「その神社の歴史」=由緒かと思います。

その地域以外からの参拝者も多い大きな神社であればパンフレットとして由緒書があったり、社殿近くに由緒を記した看板があったりしますが、地域の氏神神社ではその様なものもなく、当職所管の神社でも一部の神社を除いてその様な掲示はありません。氏子さんへの配布物に書いてあったり、ある神社では総代さんのご尽力により本となったりというものもありますが、例外的です。本サイトには各社の由緒を記載していますが、これも間に合わせで打ち込んだもので、未完成です。多くの神社の場合、由緒と言うとその神社が纏めたもの=自己申告である事が多いです。その神社以外に客観的な史料が遺っているわけでなければ、やや信用に足らないものも多いかと思います。
そこで今回は、ご自分でできる神社の「客観的な由緒の調べ方」(尾張地域)をご説明致します。

 

キーワード

・寛文村々覚書(寛文年間末1670年頃)

・尾張徇行記(文政5年1822年)

・尾張誌(天保15年1844年)

・東春日井郡誌、高蔵寺町誌、篠岡村誌(大正~昭和初期)等

 

地域の氏神神社では、多くの場合古い史料は残っていません。現在由緒として謳っている内容の多くは、個々の神社に現物の文書…所謂「社伝」が残っていない場合は、上記に挙げた史料がベースとなっている事が多いかと思います。当職の神社の場合ですと、春日井市松本町の諸大明神社と小牧市小牧原新田の黒須雲神社を除くと、ほぼ上記史料からの引用です。諸大明神社は春日井市白山町の圓福寺の古文書に記載があり、黒須雲神社の場合は昭和11年の創建(再興)の為です。また、最後の「東春日井郡誌」「高蔵寺町誌」「篠岡村誌」は上3つの史料からの引用が多く、実質的にはこの3冊が根拠と思って良いかと思います。また、個々の神社の創建年代や祭神については、式内社等の著名、また大規模な神社でない場合は近代の記録以外には棟札等から辿る事が多いかと思いますが、これに関しては焼失・紛失をしていなければ、各神社に残っている事かと思います。当職所管の神社でも、戦国時代以降の複数の棟札を保管している神社があります。

他には、江戸時代の尾張在住の学者津田正生の著した「尾張神社帳集訂考」(尾張国神社考)や「尾張国地名考」等も、参考になります。これらの書物は、ものによってはネット上で公開され、また活字本として明治以降に出版されています。またそれらをベースとする上記郷土誌であれば、その地域の図書館にはほぼ蔵書しているものと思います。幕末以前の書物ですと現在と地名、社名が違う、またはその書物に記載があっても合祀されて神社そのものが無くなってしまった場合も多いですが、東春日井郡誌などであれば、概ね現在の地名(昔で言うところの大字)や神社名と変わらないので、調べやすいかと思います。現在神社として存しているが明治後期~戦前刊行の史料に名前の無い神社は、当時は無かった神社(神社と名乗っていても実質は新興宗教)、または戦前には公的に神社と認知されていなかった施設である可能性が高いかと思います。

神社の自称する由緒では、「当社は式内社の〇〇にあたり」等と記載されている場合もありますが、上記の様な史料の中に一文そう書いてあるものをそのまま引用しているだけの神社も多く、正直「絶対嘘だろ」と思う様な由緒を書いている神社も少なからず見受けられます。式内社とは平安時代の所謂「延喜式神名帳」に記載のある神社の事を言いますが、例えば愛知県では熱田神宮や真清田神社等の大規模な神社でなければ、本当にその神社が式内社であるかを物的、史料的に証明する事は難しいかと思います。千年以上の歴史の中では、神社も場所が移動したり地名が変わったり、何百年と歴史の表舞台(史料)から消える事も多く、また廃祀となった可能性が高い神社もあるからです。その為、特定の式内社を自称する神社が複数あると言う事も多く見られます。これを「論社」と言いますが、古墳における「比定」と同様の意味があります。客観的な史料が百年毎くらいに遺っている様な場合を除いて、現在氏神神社となっている小さな神社を式内社と断定するのは、発掘作業をして平安時代や鎌倉時代以前の考古学的な物的証拠でも出てこない限り、難しいのではないでしょうか。因みに現在で言うところの旧春日井郡は、延喜式神名帳で言う春部郡にあたりますが、当時存在した山田郡との郡境が不明である事、またその他の郡との境も時代によって移動がある事から、現存する神社と式内社を擦り合わせても、断定できるものは数社しかないのではないでしょうか。概ね確かと言えるのは、小牧春日井では伊多波刀神社、内々(内津)神社あたりです。当職所管の神社では、小牧市野口の白山社を式内社の小口神社、小牧市(篠岡)大山の兒社を託美神社に比定する説がありますが、兒社は別の史料では創建が平安時代後期とされており、当職は懐疑的です。白山社については正直分かりません。また、極一例ではありますが、愛知県内のある神社は、自社の由緒に伊勢の神宮と関わりがあるかのような事を書いています。しかし、考証してみると、ただ神宮の関係のものが自社の近くに在るだけで、その神社と神宮は関係が無い様です。その様な「昔から大きな神社と密接な関係がある」かの様に由緒に記す神社も少なからずありますが、どこまで信用できるものなのかと個人的には思います。例えば上末の八幡社の鎮座する小字(新田)の近隣に「大神宮」と言う小字があります。以前何かの文献(確か「荘園志料」だったと思うのですが再度調べても見つけられませんでした)でこの大神宮なる小字は「伊勢の神宮の荘園であった」と言う記載がありました。これも読み手(書き手)によっては、「当社の近隣には神宮の荘園があり神宮との関わりが~」と言った書き方で由緒に載せたりするのでしょう。これに限って言うと、荘園があったとしてもそれは恐らく中世以前、上末の八幡社の創建は戦国時代後期に当時の戦国武将による勧請とされていますから、ほぼ関係が無いと言えます。当職所管でそういった歴史がある可能性が高いのは、林の三明神社くらいかと思います。三明神社は嘗ては大縣神社に関係する神社であったとの説があります。地理的に見ても林や野口は大縣神社に近く、また時代によっては春部(春日井)郡ではなく丹羽郡であった事もある様なので、可能性としては有り得るでしょう。また、三明神社は式内社の非多神社の論社とされます。他に当職所管神社で文献によっては式内社の論社とする神社は、春日井市松本町の諸大明神社→物部神社がありますが、根拠は不明です。

 

上記の様に、神社の由緒については様々な説があり、由緒書やネットの検索で目に触れるものはその一部を書き出したものになります。よって、例えその神社が公に出しているものであっても、必ずしも正しいとは言えないと思います。根拠(史料)を提示出来ないものは「あなたがそう思うならそうなのかもしれませんね」くらいにしか言えません。それは上述の史料に記載のある物でもそうかもしれませんが、少なくとも数百年前の江戸時代にはそう言われていた、またその史料が現存していると言うのは、由緒として有力な根拠の一つではあると言えます。

ある神社の由緒、歴史に興味をお持ちになったら、上記の様な史料で、ご自身の納得のいくまで、ご自身で調べられるのが良いかと思います。

尾張国(地域)は、江戸時代を通してその全域を尾張藩が治めたため、三河地域等と比べると史料が非常に豊富で体系的に調べやすい地域です。写真は当職所蔵の史料の一部です。

 

次回は、明治以降の記録による神社の由緒、歴史の調べ方について説明致します。12月公開予定です。